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【おたよりコラム】自分をつくったもの。

 私のことばかり話しているこのコラムですが、今年度、あまり家族のことを書いていない!ということに半年たった今になって気がつきました。私がどんな人か、そうよね、あるある!と共感いただくためにも、よく書くようにしていた家族の話でしたが、このコラムも毎月書くようになって10年。100本以上かいていると家族のネタはつきてきていました。でもせっかくなので、また家族との話や自分がどんな幼少期だったのか、を書いていこうかなーとあらためて。とりあえず、今回はどんな家族がいたのか、という総集編!もう何年もコラムを読んでくださっている方はお馴染みかもしれませんが、家族全員登場回です!

 さて、だれから書き始めるかといったら、まずは私の家で一番中心にいた人から。家族を回していたのは間違いなく母でした。どんな母か、というと、なんといってもよくしゃべる母。本当によくしゃべる。ひとりでボケて、ひとりでツッコんでる。授業参観でも運動会でも習い事の送迎でも。その場に私がいなくても、気づいたら私の友だちに勝手に話かけている。最終的には「みおのかあちゃん、やべー」といわれるほど。このやべーといっている子たちがみんな笑顔になっていたから、冷静に考えたらすごいことなのだけど、子ども時代の私からすると、恥ずかしくてたまらなくて「学校にこないで」「絶対に見にこないで」といっていたのを覚えている。こなかったらこなかったで、寂しいと感じるめんどくさい男子だったという話は、またの機会に置いておいて。そんな母だけど、どんなときでも自分のことを信じてくれていたし、ものすごく応援してくれていたパワフルな母だった。小学校のサッカーの少年団をつくってくれたのも母、忙しい中送迎をしてくれていたのも母だった。ただ、門限などルールには厳しかったのを覚えている。元々幼稚園の先生だったらしく、結局は、うまく母の手のひらの上で転がされていたのでは、と今になって思う。

 そんな母と対極なのが父。おそらくどんなことに対しても、考えてからものをいうタイプ。あまり口数が多いわけではなく、趣味という趣味も見当たらず、父の友達を見た記憶もほとんどない。理系で家電系の研究職にいた父は、ひょろひょろ、メガネ、無口、人付き合いなし、機械好きと、時期がはまれば、秋葉原のオタクになっていたのでは、とも思う。そんな父だけれども、なにごともそつなくこなす人だった。絵を描けばうまく、逆立ち(当時すごい!と思ったけど、たぶん数秒)を見せてくれたこともあった。なにをやっても、これはこうだから、と理屈がついてくるのがめんどくさい時もあったけれど、深く考えるからなんでもできる、というお手本だったし、尊敬できるところだ。今、私が、何をするにしても、根っこから考える癖は、父の真似なのだと思う。

 そして絶対的なライバルだった2つ上の姉。私が勝手にそう思っているだけだけれども。姉ができるものは私にもできる。姉がやっているのに自分がやらせてもらえないことがどうしても許せない。家族宛の年賀状で自分が姉より後ろに書かれるのが納得いかない。ライバル心でいっぱいだった。幼い頃の私の口癖は「だってさやかちゃんが」というもの。自分はわるくない、全部姉のせいといいたかったのだけど、言いすぎたのか、この言葉を発すると「はい、でたーー」と母と姉に言われるようになっていたのも、物語っている。ライバルと書いたけれど、知らない人が多い場所では姉の後ろに隠れてくっついていたり、母に家から閉め出された時(私が悪い)には、家の中で母に「開けてあげてよ」とお願いしてくれていたのは姉だったりと、姉がいてくれたおかげで生きてこられたといっていいぐらい、姉にはお世話になっていた。そんな姉は私と性格が正反対なタイプ。一緒に育ってこんなにも違うかと思うほど。姉弟の違いもそのうち書いてみようと思います。

 最後に家族の中で、私を大きく変え、きっといま私をつくってくれているのが、リブラという愛犬の存在。リブラの話はもう、話したら絶対に止まらないので、わんこ好きな人がいて、のろけ話をきいてもいいよという人はわんこの会でもやりましょう! もうずいぶんと家族に会っていない放蕩息子の私ですが、書いてみると会ってみようかなと、ちょっぴり思えたり。いや、まずは連絡をとってみること、そこから、年内には、、、

三尾 新

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