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【おたよりコラム】心にあるものを

 「サッカーしよう!」「かくれんぼしよう!」「ルールはこうしよう!」「負けたチームは罰ゲームね!」小学5、6年生のころ、いつもまわりにやりたいことなど考えたことをどんどん伝え、まわりの子も「うん!いいね!」「そうしよう!」とのっかっていくような、みんなを惹きこんでいくことのできる子がいた。私は、というと、「うん!いいね!」「そうしよう!」と提案にのっかっていくタイプの子だった。どんなことでもみんなと体を動かして遊ぶことであれば思いっきり楽しめる、そういうタイプではあったけれど、なんでも大丈夫だから自分の意見をいわなかったというわけではなかった。みんなに自分の意見を伝えることが怖かったのだ。「これやろう!」そういったときに、だれもその提案にのってきてくれないこと、違う提案を他の子が言って、そっちのほうがいいとなること、そういった不安が大きくて言えなかった。自分の意見を言い慣れていない私は、意見が通らないことを、私自身が否定されていることのように感じていたのだと思う。そしてそれは家の中でも同じだった。家では外より自分の意見をいっていた。むしろわがままなぐらいに。そんな家族の中では一番年下のわがまま坊主の私だけれども、「これやりたい!」「こうしたい!」を伝えた後、「それは無理」「それはちょっと」というような反応があるとすぐに、「もういい!」と話を遮るようにして、むすっとしながら他のことをし始めていた。これもきっと完全に否定されることが怖くて、否定されるより前に自分からシャットアウトすることで必死に逃げていたのだと思う。結局、どちらも自分の考えを伝えることで、否定されるかもという不安が大きく、怖れていた。  これがよくなってきたのは、あがり症を克服していった時期とほとんど同じだった。自分の意見が言えないのは、否定される恐怖と戦っていたから。あがり症だったのは、人前で話したことが、もし間違いだったら、下手くそと思われたら、という恐怖と戦っていたから。どちらも自分自身に自信がなかったのだと思う。でも自信よりも大事だったのは、満点じゃなくていい、間違ってもいい、人と比べなくていい、完璧主義の自分から、ちょっとずつそのままの自分を認められるようになっていったことが大きかったのだと感じている。高校の生徒会、体育祭実行委員長への立候補、1500人の前で話すというチャレンジ、途中真っ白になりながらもやり通した経験。全然うまく話せず、人を魅きつけることもできなかったけれど、だれもなんとも思っていない、という現実をやり終えてから気づいた。そのあたりから楽になり変わりはじめたのではないかなと思う。

 勉強の世界は正解がある世界なんだと思う。正解がないものもあるよ、と言っても、結局は先生の求める答えを探していく、それが今の勉強なんだと思う。ここキッズクラブアズワンで自由に意見を言う場であっても、必ず、私の顔を見てくる子もいる。まずは顔色を伺ってもいい。それでも意見を言うという経験を積んで欲しいと願う。その経験にはたくさんのおまけがついてくる。意見が否定されないという事実。意見が通ることもあれば、通らないこともあるという経験。そして、「意見を言った子は、こういう風に考えているんだ!」とその子への周りの理解が深まること。今から、少ない人数のところでも、家族の中でも、意見を言う、ということを大切にしてほしい。

 ここ最近、たくさんの人に会う機会にめぐまれた。群馬県の観光局の方、さいたまのEスポーツ協会の方、会社の社長さんたち、大学の教授さんたち、たくさんの人に会い仲良くなる。心からおもしろいことだと感じている。新しい人に会い仲良くなるということは、想いを伝え合うことだと思う。話していると私の頭にない考えをきくこともできる。もちろんすべて意見が合うわけではなく、ぶつかることもある。でもその元にある想いを伝え合うと理解しあえる。そんな素敵な機会をみんなでたくさん感じ一緒になって成長していきたい!

三尾 新

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